中学生時代
そんな私も、やがて中学生になりました。体は成長しても肩こりは相変わらずというよりも、むしろひどくなっていったように思います。
母親に肩を叩いてもらうことが、日課になりました。
私の家には、松の枝の一際太くコブのようになった部分を少し長めに切り取ってきて、細いところを持ち、コブの部分で叩く、肩叩きがありました。
肩こらしだった母親は、よくその特性の肩叩きで、自分の肩をたたいているのは小さい頃からの見慣れた光景でした。その肩叩きは使い込まれ、握る部分は手垢と油で黒光りしていました。
ついには、母親の手ではコリがとれず、私もその松のコブで叩いてもらうようになりました。
私の場合は頭蓋骨の下、つまり、頭蓋骨と首の境目が特にこり、首の横、後、肩、肩甲骨の間、腰がつらかったです。
DV
治療方法が見つからず、長時間の勉強にも耐えられなくなった私は、だんだん荒れていきました。
しかし、他人に訴えても仕方のないことですし、病院に行っても治療方法が見つからなかった私は、外では明るく振舞い、鬱憤を家族に向けるようになりました。
一番の被害者は母親でした。大声でののしるのはもちろん、時々は殴ることも蹴ることもありました。
父親が「あいつは息子に殺される」と、親戚に漏らしたことも、私の耳にも入ってきたほどでした。
両親は何とかしなければと、駆けずり回り、見つけてきたのは民間療法でした。
吸玉療法
いろいろ試しましたが、その中で、一番効果があったのは、吸玉治療でした。
ある日、母親が口伝で聞いてきたある治療所に出かけて行きました。
そこは、病院でもなく、看板を揚げている治療院でもありません。訪れると、家族の人が農作業をしていたセンセイを呼んできました。
おそらくそのセンセイは、治療に関するどんな免許も持っていなかったと思います。
吸玉をよくご存じない方のため、写真を挿入しておきます。
写真はポンプでプラスチックの吸玉の中を真空にし、大気の圧力で皮膚を吸い上げ、血の循環を良くするものですが、そのモグリの治療所では、皮膚をカミソリでガリガリ切り、ガラスの吸玉に火の点いた脱脂綿を入れ、傷口に当てて血を吸いだす方法でした。
大人になってからちゃんとした治療として、吸玉療法があることを知りましたが、インターネットもない当時のこと、その療法のことは何も知りませんでした。
そこは、吸い取った血を机の引き出しに入れたブリキ板のお菓子の缶のようなものに、ドボドボと、溜めているようなところでした。治療の終わった患者の前でそれをするものですから、前の患者の血が溜まっているところに、新しい血が注がられるのが見えました。缶が一杯になれば、おそらく裏庭にでも捨てていたのでしょう。
とてもまともな治療院でないことは、子供の私でもわかりました。一緒に行った母親もあまりのうさん臭さに「止めとこうか?」といいましたが、「楽になるのならなんでもいいや」と、思っていた私は、そこに通いました。
しかし、素人(私から見て)が皮膚をあちこち切りまくり、血を吸いだすものですから、そのうちに貧血に陥りました。歩いていても、フラッと倒れそうになることも度々になりました。体育の授業でも、皆についていけなくなりました。3日に1回、しかも少なくない血を抜いていれば、このようになって当然です。
体力が衰えてきたことは、親にもわかったのでしょう。「もう、あそこは止めた方がいい」
何事にも反発していた私も、このときは母親の助言に従って、その治療所には行かなくなりました。